消滅の危機に直面した「沖縄そば」が、ご当地グルメに返り咲けたワケ
もはやウチナーンチュのソウルフードと言っても過言ではない「沖縄そば」。沖縄フリークならずとも、さらには沖縄を訪れたことがない方でも、このご当地フードの存在自体は知っているのではないでしょうか。
ただし、沖縄そばをまったく知らないという方も中にはいらっしゃるかもしれませんので、まず簡単にご説明します。
沖縄そば=日本そばではない
まず、知らない方のために絶対に必要な説明だと思いますが、沖縄そばは「そば」と銘打っているにもかかわらず、いわゆる「ざるそば」や「かけそば」のような日本そばとはまったくの別物です。
麺は100%小麦粉のみで作られ、一般的にはかん水を加えて打たれます(ガジュマル等の薪を燃やして作った木灰汁を加えて打つ伝統的な方法で打たれる麺もあります)。
ですので、そば粉は一切使われていません。どちらかといえば、日本そばよりラーメンの麺に近いと言えますね。ただ、麺は一般に太めで、だしは豚骨とかつお節でとる和風の澄まし汁が現在の主流ですので、味や食感は、むしろ肉うどんに近いかも。
では、一体なぜ沖縄そばは「そば」と呼ばれるようになったのでしょう。成り立ちを探れば、その歴史が見えてくると思いますので、まずはその歩みから。
沖縄そばは宮廷料理だった
諸説あるようですが、沖縄そばのルーツは中国の麺料理だといわれ、琉球王朝時代に宮廷で食されたことが始まりとされています。
文献で初めて確認されているのは1534年、琉球王朝第二尚王統三代王・尚真の四十九日のおくやみのメニューの中に、中国から招いた料理人が「粉湯」という料理を出したという記述です。
「粉湯」とは中国語で「汁そば」という意味らしく、これが沖縄そばの原型であったといわれています。つまり、もともと沖縄そばは王朝で振る舞われていた宮廷料理だったのです。
そして、沖縄そばが庶民に広まるのは明治以降。中国人コックが那覇市の辻遊廓近くに開いた支那そば屋が、今日の沖縄そばの直接のルーツとされています。大正時代になるとそば屋は増え、一般庶民が気軽に食べられる料理になっていきました。
沖縄戦によりいったん沖縄そば屋はなくなりましたが、戦後、米軍占領下で小麦粉が出回るようになり、沖縄そば屋は次々と復活。ちなみにその一翼を担ったのは、戦争未亡人たちとも言われています。
その後、急速に普及した沖縄そばは、沖縄県民の味覚に合わせた改良が重ねられた結果、現在の型になっていきました。